四季折々の生活に則した身体の観方、使い方《後編》

四季折々の生活に則した身体の観方、使い方《後編》

身体感覚講座講師 松田恵美子さんインタビュー


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     働く女性のためのキャリアプランニング情報誌
         「きゃりあ・ぷれす」vol. 103
           2002・4・3(水)発行
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■INDEX■
■【特集企画】「天職を探せ」
 第2回 松田 恵美子さん(後編)(身体感覚講座講師)
・ 待てるか、待てないか
・ 身体観がガラガラと変わる
・ 外を見るのか、内を観るのか
・ 身体は人生と共にある
  
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        第2回 松田 恵美子さん(後編)
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■プロフィール■
松田 恵美子 (Matsuda Emiko)
身体感覚講座 講師

記者・編集者として、出産を機に「よりよいお産」を探るうち、現代人にお
ける生命力の発露へ眼が向く。瞑想ヨーガを塩澤賢一氏に師事。
社団法人整体協会・身体教育研究所(野口裕之氏主宰)にて内観的身体技法
を学び、身体内の動きと内部感覚の領域へ。
四季折々の生活に則した身体の観方、使い方の指導にあたる。

◆身体感覚講座とは◆――――――――――――――――
この講座では、四季の移ろいと共に変化してゆく、身体に潜む「自然の動き
と感覚」に出会ってゆきます。
まずは、自分の身体の内側に眼を向けてみる。外を見たときの違いを知って
ゆく。
そして、身体内に生じた感覚を味わいつつ、動きの流れに乗ってゆく。
そこでは、いろいろな発見が起こります。
ビックリしたり、ナルホドと納得したり……。
おもしろがって、自分の中のいろんな感覚に出会ってゆくうちに、身体の内
側の勢いが目覚めてくるとイイ。

イメージは使いません。
アタマで身体を支配せず、実際に自分の腹や腰をちゃんと使ってみようよ、
という挑戦です。ちょっと大変だけど、自分で自分を変えてみようよ、とい
う試みでもあります。
ですから実技は、仕事や日常生活、人間関係など、日々の営みの中で、自分
で実践していけることが中心。
クールに自分を観つつ、「自分の身体の自然」と共に生活できる知恵やヒン
ト、喜びや楽しさをお伝えできたらと思っています。

◆ 前回の対談より◆…………………………………………………………………

■与えられた状況をどう捉えるかは、結局はその人が選んでいるんです。
 ものごとって、いろんな受けとめ方があって、私たちは気付かないう
 ちに、自分のクセでそのものを見る角度を決めている。逆に言ってし
 まうと、どんな最悪の状況に陥ろうと、それをどう捉えるかはその人
 次第。むしろ、「どう受け入れるか」こそが、その人にできることな
 んでしょうね。

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         ■待てるか、待てないか
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松田 スミマセン。人生をあらすじ化しちゃつまらないと思うと、つい話が
   膨らむいっぽうで……。まだ肝心の“身体感覚”の話までもいってな
   い。

宮崎 ちょっと辛口なところもあるけど、「何だか朝の連ドラを見ているみ
   たい」なんて言うと怒られそうですね(笑)。

松田 イヤぁ、昼メロの要素も、もう少しあればいいのに(笑)。私の場合、
   いつも周りの状況の方が先に進んじゃう。本当はのんびり優雅にして
   いたいのに、このままだと何か違ってしまいそうと思うたびに、最も
   “自分の満足”と折り合いのつく方法を、そのつど選んできたみたい
   です。でもその時、目先の利益や感情を優先するのでなく、自分の奥
   にある、今、見失ってはいけないものを探ろうとする。今、その状況
   でできる最も単純なことを。思うに、愛媛時代の、夫の転勤について
   いかずに1人で街に残ったというのは、無意識に「間を置く」という
   選択をしたんでしょう。波に巻き込まれたくなかった。
   ところが妊娠の場合は、そうはいかない(笑)。

宮崎 東京に戻ってからも、また、編集の仕事をされていたんでしょう?

松田 ええ。脚本家の事務所で取材を手伝ったり、石材建築の専門誌にいた
   り。自分のテーマを持ちたいなぁと思いだした矢先に妊娠して、「な
   ら、出産でいこう!」と。愛媛にいた時、『お産と出会う』という本
   で毎日出版文化賞を受賞した、文化人類学者の吉村典子さんと懇意に
   していたこともあって、「女にとって、よりよいお産とは――」を、
   自分の体験で探っていこうと思ったわけです。
   本当にお産って、キツイ、苦しいばかりなんだろうか? 妊娠中の身
   体の変化、出産方法、産む場の現状や選択、確かめたいことは山ほど
   あって興味がつきない。というか、年子で続けざまに3人妊娠しちゃ
   って、もうそういう方向へ一直線……。

   出産というのは、否が応でも自分と向き合わされますね。命がけとい
   うのか、身体が自分の意思のとおりにならない極み、というか。その
   瞬間をどう迎えるのかということに、今まで過ごしてきた人生の何か
   が、みんな出ちゃうような出来事。その時々の私を象徴するかのごと
   く、三人三様の出産体験でした。

   特に3人目の体験は、私にとってとても大きかったです。ジャングル
   の奥地で子供を取り上げた経験のある助産婦さんがついてくれて、
   「また来たの? あなたの好きなように産んでごらん、どんなふうに
   産んでも大丈夫だから」と心強い応援をしてくれた。で「今だな、産
   まれるな」という瞬間、お腹の子に「もう産まれてきてもいいよぉ」
   と心の中で声をかけました。そのとたん、回転滑り台をスルスル回り
   降りるような感じでスルッと生まれてきちゃった。一体、何が起きた
   んだ? それまで、お産というのはウンウンといきみ続けて産むもの
   だと思っていたのに。でも「コレが出産ダッタンダ! 自然の理(こ
   とわり)とは、こういうことだったんだ」と3人目にして、やっとつ
   かめた。今でもこの子は、耳の大きな、気持ちのよく通じるコですけ
   どね。

宮崎 へぇー、すごい話ですね。そのことを書こうとは思わなかったのです
   か?

松田 マタニティ雑誌の創刊が相次いでいて、マタニティライターとしてデ
   ビュー寸前でしたけど(笑)。極めて個人的な体験だから、マスメデ
   ィアに出して雛形にしない方がいいなと思いました。言葉にしない方
   がいいこともある。言葉にできないこともあるんだ、と。でも、自然
   の動きが発生してくる中で何が起こったのか、自分でちゃんと把握し
   ていきたいと思いました。

宮崎 それが、現在の“身体感覚”の世界へと続いていくわけですね。

松田 はい。結局、仕事で外へ外へと向かっていた自分の意識の方向が、出
   産をきっかけに自分の内側に向かいだしたんだと思うんです。
   おまけに子育て! 出産で身体の自然に目を向けることに行き着いた
   ら、日常では“その自然が待てるかどうか”を生活の中でいつも試さ
   れている。もう修業としか言えませんよね(笑)。
   
   たとえば、子供が昼寝している間に原稿を書く。起きちゃうと「もう
   5分寝ていてくれれば」とガッカリします。「よく寝れた?」と聞く
   笑顔がヒキツっている(笑)。2人目が産まれてからは、明け方の3
   時、4時に起きて机に向かうこともしましたが、日中に眠くなって、
   子供と一緒に昼寝をグーグー。家の中はグチャグチャ。
   何より欲しいものは、時間! お金よりも時間! という生活に一気
   に変わったわけです。こと、原稿の締め切りがある時には、電話の呼
   び出し音が一番コワイ(笑)。

宮崎 お子さんとの時間も、仕事の時間も、それに集中したり楽しんだりで
   きない状態だったんですね。

松田 生きものが成長していくのには独特のペースがあるのに、仕事のペー
   スの自分を引きずったままだと、かなりイライラすることになっちゃ
   う。どうバランスをとるかに、もう試行錯誤の連続でした。2人目が
   産まれてご飯も立って慌てて済ますような日々が続いた時、「1日た
   った30秒でいい。ただ黙って座っていたい。自分に戻りたい」という
   要求が切実に芽生えているのに気が付きました。ふと、「ヨーガをや
   ろう!」と思って。

   最初は子供を預かってもらうということに遠慮して、「子連れヨーガ」
   とかいうデパートのカルチャーセンターから始めました。久しぶりに
   身体を伸ばして気持ちイイ、なんてやっていると、隣で息子が積み木
   を倒してイタタタ……という調子(笑)。それでも、何も背負ってい
   ない贅沢な時間が嬉しかった。
  
   子供がいる場合、日常から脱皮するには、ちょっと頑張ったら手に入
   るという着実なところからでいいと思うんです。いきなり難しいこと
   を狙って周りを巻き込み、無駄な努力になってもつまらないでしょう。
   自分の要求が高まった極(きわ)を見逃さないようにして、とにかく
   一歩を踏み出す。後は、自分の分に応じたやり方で、だけど気持ちだ
   けは反らさない。すると、閉塞していた状態が少しずつ変わり始めて
   くると思うんです。

   このことは、もっと集中したいという思いと日常のバランスをどう取
   るか、焦らないで続けていくにはどうするかという、私自身のコツで
   もあるんですけど。

宮崎 かなりの忍耐力というか、長い目で見る許容力が必要ですね。私とか
   きっと失格だと思います。すぐパッパッとやれないと気が済まない。
   松田さんのそういう力が、身体感覚の世界を極めさせていくのではな
   いでしょうか。

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         ■身体観がガラガラと変わる
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松田 2人目、3人目が産まれていく2年間は、私にとっても激動の時でし
   た。3人目がオナカにできて2カ月の時、私の父が亡くなったんです。
   父が病院に入って、嗅覚に敏感な私の妹だけが“父は危ない”と主張
   し続けたんですが、お医者さんは、「この数値がでているから、もう
   絶対大丈夫。峠は越えました」と。その翌朝、父は死にました。
   こりゃ一体ナンダ? という感じで……人の命って、機械で測った数
   字と全く違ったナニカで生きているのではないかと思うきっかけにな
   りました。

   それに、子供が風邪をひいたり、ケガをしたり、それは自分が忙しく
   て気持ちが向いていない時に起こりやすい、となんとなく気付くよう
   にもなっていて、ナニカありそうだナと。

   そんな矢先に起きた、極め付きの出来事が、4歳になったばかりの息
   子の骨折。真ん中の娘が2歳5カ月、下の娘が生まれてまだ10カ月
   ぐらいだったのですが。泣き叫ぶ子供を抱いて救急病院に行ったら、
   「肘を複雑骨折しているから、入院できるよう小児病棟のある国立病
   院へ、すぐに救急車を回しましょう」と言われました。でも、腕を切
   開して骨をボルトでつないで、また切開するとなると3カ月はかかる
   らしい。これはヤバイ! つまり、息子の肘は治るだろう。だけど、
   3カ月もの入院に誰が充分に彼につきあえるのか。私は下の子たちの
   面倒で手一杯、夫は学校創りで多忙、実家に応援も頼めない。きっと
   息子の中には、別のものが発生するに違いない……と思ったみたいで。

宮崎 何か、わだかまりが残ると?

松田 ええ。治った肘を抱えた息子の暗い表情が思い浮かんで。モタモタし
   ていると救急車がお迎えに来てくれちゃうから、とにかく咄嗟の判断
   で、裸のままの息子をバスタオルにくるんで、「大事なものを忘れま
   した。わはは……」とか、なんだかんだ言ってタクシーに飛び乗り
   ました。で、以前に本で見たことのある整体の道場へ駆けつけたんで
   すが「骨をつなげた後の面倒はみられるが……」と言われ、またタク
   シーへ。困り果てて、フト運転手さんに尋ねたら、「年だから開業し
   ているかどうか……」といいつつ柔道整復師の先生を紹介してくれま
   した。

   そのジイサマは、名前も「尾崎金太郎」と言って、ドラマ『赤ひげ』
   の治療院みたいな、ひなびた日本家屋に住んでいました。ガラガラと
   きしむ戸を横に開けると、「ハイハイ」と言って奥から出てきて「何
   を男の子がそんなに泣いているんだ?」と。そう言ううちに、骨折し
   た腕を両手の平で包んでムニャムニャと指を滑らすように動かしてい
   る。

   で、「もうこれでいいよ、当て木をしておこう」と。「エッ?!」って
   感じで仰天でしたね。腕も切らなきゃ、ギブスもない。おまけに、立
   ち上がった息子に「ここの力が抜けとるワイ」と言って、突然「エイ
   ッ!」とへそ下へ握りこぶしで気合いを入れました。あまりにビック
   リして、思わず私もシャンとしちゃって。ショックで蒼ざめていた息
   子の頬も、みるみるうちにピンクに戻りました。神業に触れたのか、
   狐につままれたのか……!?

   “私がいままで思ってきた身体って一体ナンダったんだろう。”
   肘の当て棒1本で、平気な顔して私たちとの生活を続けている息子を
   見るたびに、そう思いましたね。「腫れは自然のギブスだから」と言
   われるとおりで、無理せず、動かせる範囲で腕を動かしている様子か
   らは、息子の身体が徐々にリハビリを始めているのも分かって、人の
   身体って凄いなぁと。

   それと同時に、咄嗟の判断とはいえ入院をしない選択をしたのは私だ
   から、後で困らないよう、自分のできることは精一杯しよう、整体を
   学ぼうと思いました。でも、“小さな子連れではまだ当分無理かな”
   と諦め半分でいたところ、友人が道場にかけあってくれて、「先生を
   派遣してください。あとは、こちらで何とかしますから」と話を進め
   ちゃった。ありがたかったです。
   自主保育で出会っていた近所のお母さんたちも、「なんか面白そう」
   と保育を分担してくれて、まずは公民館で、地元での勉強会がスター
   トしていったんですね。

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        ■外を見るのか、内を観るのか
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宮崎 私にも、母の大病に際して、5年生存率1000分の1と宣告され、
   方々で西洋医学のお医者さんとケンカして、あまたある民間療法と言
   われるものの中から、自分がピンとくるものを選んで実行した経験が
   あります。それから10年経ちますが、おかげさまで、母は亡くなる
   どころか病気をする前より元気に暮らしています。だから、松田さん
   のそういうお話にまったく違和感がありませんよ。

松田 自分で何とかならないかと思って、常識の抜け道を真剣に探していた
   ら出会っちゃったみたいな。せめて、風邪をひいた時とか、すぐ薬に
   頼って症状を抑え込もうとせずに、自分の身体は何を要求しているん
   だろう、何を変えたいんだろうと、ジィーッとその経過を追ってみる
   ぐらいの余裕があると、身体の捉え方も変わってくると思うんですけ
   どね。あれからもう十数年経ちますが、ヨーガや整体の先生たちは、
   そのつど私にとって必要だったことを伝えてくれました。今はその自
   分の内側にある五感ではない感覚に、どう出会い、どう味わい、どう
   生かすのかにやっと進んできたところです。

宮崎 五感にない感覚ってあると思います。私も無意識に使ってるな、とい
   う気もします。でも、私も松田さんに半年ほど教えていただいていま
   すが、身体の内側を観るって、本当に難しいですね。それだけに興味
   は尽きないですが。

松田 身体の内側の感覚の世界って、信じられないほど深いんですよ。きっ
   と宇宙の果てのように、どこまでいってもたどり着けないんじゃない
   か、と思う。“ここまで分かったらオシマイ”ということがない。
   私だって、どんなに教える立場になったって、自分が追求していかな
   いと、そこのレベル止まりになってしまう。だからこそ、すごく面白
   いんです。もっと、もっとと求めたくなる。その世界に入り込む体験
   を重ねることが、本質的なものに近づいているという実感につながる
   から。

   深遠かつ、でもそれは、日常の中で誰でも本当は無意識にやっている
   ことでもあるんですよ。
   たとえば、スーパーの買い物袋を下げている時、袋の中身にキャベツ
   や大根が入って重たいなと思う。重たいから、じゃあどう持とうか。
   指先で握る、手首に引っかける、曲げた肘にかける、思いきって肩ま
   で上げちゃう。全部、重さは変わりますよね。物理的な重さは変わっ
   ていないのに、重さの感覚は変わる。重たい物は軽く持つことができ
   るんです。

   ところが、私たちは自分のクセで、いつもの場所に持ってしまう。
   そして袋の中身を考えて「重たい、重たい」と連発する。身体と仲良
   く付き合うためには、まず、いつのも場所がどこなのか、自分のクセ
   に気付いていくことから始まるんですね。それから、その日の自分と
   荷物において、どこで持つと程良い関係になるのか探ってみる。指で
   持つなら、どの指に気持ちを向けたら軽く感じるのか、どの指で持つ
   と逆に重たくなってしまうのか、その指は身体のどことつながりがあ
   りそうなのか。そして、その指を観ている私は誰なのか……。
   もう、観ているのは目玉ではないでしょう?

   すると、日本の文化にも「重たいものは軽く持つ」「軽いものは重た
   く持つ」という工夫があちこちにされていることにも気付いてくる。
   外側の形だけ見ていても分からなかったことが、自分の内側に眼を向
   けることで、型に潜む感覚に出会える。または、その感覚に添って発
   生した動きにのっていった時には、美しい型になるという不思議さも
   ある。つまり、それは必然としてのフォームだったと。否応なく、日
   本人の血が流れている身体を持つと、その独特の身体感覚が育んだ日
   本の文化、型と共にある自然観って、スゴイなと思う。

   実は、そうやって自分の眼を深めていくことが、知識に頼らない自分
   なりの審美眼を高めることにも、なるんじゃないかと思うんです。

宮崎 日本人って“世間様”を奉る人種だと言われたりしますが、松田さん
   のお話を聞くと、本質的には決してそうとばかりは言えない。それは
   日本人の私にとっても、すごくうれしい発見です。

松田 自分の自然を尊ぶ姿勢が、相手に対しても嗜みの眼を失わせないのか
   もしれませんね。

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         ■身体は人生と共にある
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松田 子供を妊娠してからの16年間は、図らずも、自分の身体からの声を
   どれだけ素直に聴けるか、感覚を磨いて、その動きにのれるか、そん
   な挑戦だったようにも思います。幸いなことに、編集の仕事ができた
   ので、専門の機関誌や学会誌に携わりながら勉強できたという恵まれ
   た立場にもありました。
   自分の身体は生きている。この生命と共に。
   切り刻みのできる物体としてではなく、“動いているモノ、変化して
   いるモノ”として認めていく発想に出会っていなかったら、仕事も
   子育ても目一杯な状況を、どこかで面白がりながら切り抜けてはこら
   れなかったでしょう。
   身体は、どんな切り口でも、自分が自分で認めた分だけ答えを返して
   くれます。その時々に応じた思いがけないプレゼントにも、ずいぶん
   助けられて、続けてくることができました。

   最初は、何だかよく分かんないのにゲンキになっちゃう。身体の見た
   目は変わっていないのに、首や肩が張っていたのが気にならなくなっ
   て、終わると、階段を上る足が軽くなっている。何かスウーッとして
   身体がまとまる心地よさみたいなものを体験してくると、今度は自分
   でどうやったら、それに近づけるのかなぁと工夫したくなる。
   すると、見える形ばかり追っていても、その感覚はつかめないんです
   ね。見かけは同じでも中身はまるっきり違うことをやっている、とい
   うことがあるわけです。

   息子の肘でお世話になった金太郎ジイサマのような、達人、名人の方
   は、到底、凡人では理解できない微細な感覚レベルで動いているよう
   です。私たちが彼らの行為を見て「何かスゴイネッ!」ってある迫力
   を感じるのは、その中身のことだったんだ、と私自身、気付くのに何
   年もかかりました。
   
   その辺りのことは、今度講談社から出版する、人と自然をつなぐBe
   -nature schoolという学校の講師仲間で書いた『自分
   という自然と出会う』という本に述べてあるのですが、とにかく、そ
   の中身の感覚に気付くと、その分だけ自分の眼が肥えていきます。さ
   まざまな角度や層で、この人生が捉えられるようになっていきます。

   子育て、家庭生活においても、だいぶ円滑に進むようになりました。
   小言ひとつ言うのだって、どのタイミングで、どの程度に、どの間合
   いで言えば、その子の内側に響くのか、自分で気付いていってくれる
   のか。怒って怒鳴ってばかりでは、ますます声を荒げるしか方法はな
   くなります。そんなの疲れちゃいますよねェ(笑)。

   たとえば、急いで帰ってきて、夕食の準備に取りかかりつつ「宿題や
   った?」と聞いた時、我が家では部屋のあちこちから「ヤッタア!」
   「ヤッテナイ」「知らなあい」と、いろんな返事が返ってきます。誰か
   ら今日の様子を聞こうか。どのようにしたら、お互いに満足ができる
   のだろうか、と。身体を通しての集注がどういうものか分かる以前は、
   「早く夕飯作らなくちゃ」と頭がいっぱいのまま、子供に向かったん
   ですけどね、全然通じないですよ、それじゃあ。

宮崎 その状態だと、どんな時間でも何かできない自分がいるわけでしょう。
   1つのことに集中してやれば、そのことに100パーセント時間は使え
   る。満足感も変わってくるでしょうね。

松田 ええ、自分が今、何に集注しているのか、子供なのか、仕事なのか。
   どんなに短い時間でも、何に全身でかかわるかによって、私の集注形
   態は違うわけですよね。ならば、いろんな自分になって、その時々を
   思い切り味わえばいいじゃないと。開き直っちゃった方がいい。その
   ものに向き合えるのは今しかない、と。時間の流れが、今、今、今の
   積み重ねになっていく。
   その覚悟ができると、対峙している関係性の中から、その人の奥にあ
   ったものがキラリと立ち上がってくる一瞬がある。実は、これこそが、
   自分は自分、相手は相手、でもお互いに感応しあう関係性、良い場が
   創れた時の醍醐味でもあるんですけど。それに出会えた時は嬉しいで
   すよね。やはり、何かと出会うのって一期一会なんじゃないか……。
  
   身体を観るということが日常になると、自分自身の中にも、たえず変
   化している波みたいなものがあるのが分かります。女性の場合、生理
   の波ってすごく自分が分かりますよね。排卵、生理前後では、ずいぶ
   ん感情や仕事への姿勢、食べ物の好みなんかが変わってくる。それに
   まず気付く。そして、サーファーみたいにその波をよむ、その波に乗
   る。そうすると、もっとラクに自分と付き合うことができるんじゃな
   いかなぁ。そうやって、変わり続けている自分に出会うと、“本当の
   自分、いつもの自分なんてどこにいるのか”とも思えてくる(笑)。
   でも、それを楽しんで観ている自分はいるんですよ。

   自分の内側に眼を向けつつ出会う外の世界も、自分の裡(うち)にあ
   る落ち着いた静寂なひとときも、みんな現実であることが分かると、
   自分自身に気付いた分だけ、きっと宇宙を理解できるんだろうなぁと
   思います。

   今の私にたどり着くまでは、いろんなことが伏線になっていて、しか
   も重層的に同時進行していて、さらにそこにいろんな人間が絡んでく
   る。1人ひとりが、勝手にアメーバーのように増殖したり、縮んだり
   蠢いていて、その触手が触れ合ったり、離れたり……。影響しあいな
   がらも、その動きすら変化していく。

   人生って、きっと誰もが自分にとっての自然な流れになっているんじ
   ゃないか。ならば自分の観方ひとつで、もっと豊かに実り多く、酸い
   も辛いも味わえないか、せっかく生まれてきたんだから堪能できない
   か。それが私にとって今は“身体”という世界を通して伝えたいこと
   なのかもしれません。“この人生”の時間は限られているんですから。
                               (了)

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