ジャーナリスト/コミュニティ・プロデューサー
木村麻紀 公式ウェブサイト

四季折々の生活に則した身体の観方、使い方《中編》

身体感覚講座講師 松田恵美子さんインタビュー


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     働く女性のためのキャリアプランニング情報誌
         「きゃりあ・ぷれす」vol. 102
           2002・3・28(水)発行
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■INDEX■
■【特集企画】「天職を探せ」
 第2回 松田 恵美子さん(中編)(身体感覚講座講師)
 ・“私なり”に仕事を決める
・ 閃きが“ピタッ”とはまる感覚を追って
・ 挫折をどう受け入れるか
  
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        第2回 松田 恵美子さん(中編)
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■プロフィール■
松田 恵美子 (Matsuda Emiko)
身体感覚講座 講師

記者・編集者として、出産を機に「よりよいお産」を探るうち、現代人にお
ける生命力の発露へ眼が向く。瞑想ヨーガを塩澤賢一氏に師事。
社団法人整体協会・身体教育研究所(野口裕之氏主宰)にて内観的身体技法
を学び、身体内の動きと内部感覚の領域へ。
四季折々の生活に則した身体の観方、使い方の指導にあたる。

◆身体感覚講座とは◆――――――――――――――――
この講座では、四季の移ろいと共に変化してゆく、身体に潜む「自然の動き
と感覚」に出会ってゆきます。
まずは、自分の身体の内側に眼を向けてみる。外を見たときの違いを知って
ゆく。
そして、身体内に生じた感覚を味わいつつ、動きの流れに乗ってゆく。
そこでは、いろいろな発見が起こります。
ビックリしたり、ナルホドと納得したり……。
おもしろがって、自分の中のいろんな感覚に出会ってゆくうちに、身体の内
側の勢いが目覚めてくるとイイ。

イメージは使いません。
アタマで身体を支配せず、実際に自分の腹や腰をちゃんと使ってみようよ、
という挑戦です。ちょっと大変だけど、自分で自分を変えてみようよ、とい
う試みでもあります。
ですから実技は、仕事や日常生活、人間関係など、日々の営みの中で、自分
で実践していけることが中心。
クールに自分を観つつ、「自分の身体の自然」と共に生活できる知恵やヒン
ト、喜びや楽しさをお伝えできたらと思っています。

◆ 前回の対談より◆…………………………………………………………………

■ どんなに羨まれるような経歴や収入があっても、本当に自分が自分に満足
 しているのかは、その人が一番知っています。(中略)
 そして一度でも、その充足感を味わうと、さらにもっと深いものに出会い
 たいと望んでいくのもまた、「人の力」なんじゃないかと思うんですね。
 そういう充足感に出会うためには、身体ごと真剣にかかわっている自分に
 出会ってゆく。そういう体験の中から、次のステップが生み出されてゆく
 ように思えてならないんですよ。

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■“私なり”に仕事を決める
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松田 それにしても宮崎さん、「天職を探せ」とは、随分、思い切ったタイ
   トルをつけましたね。むしろ今って、“自分で自分が一番よくわから
   ない”っていう人、増えていると思うんです。
   与えられることに慣れすぎちゃうと、自分が本当にしたいことが何だ
   かわからない。忙しさに追われることが当たり前になっちゃうと、疑
   問すらもたない。そういう中で、あえて極めて個人の事情に揺り戻す
   というか……。

宮崎 そうですね。確かに、ちょっと無謀な企てかもしれません(笑)。
   でも、今だからこそ自分に立ち返ることが重要なんだと思ったんです。
   戦後の高度経済成長期やバブル期を経て、と言うよりは、産業社会の
   進展によってと言ったほうがいいかもしれませんが、「仕事」という
   ものが、どんどん細分化、専門家され、「個人」の価値観やトータリ
   ティから乖離したものになっていったように思うんです。

   労働組合的な労働者保護の立場からも、労働時間はできるだけ短いほ
   うが良く、余暇の時間を増やして、そこで自己実現していくのが正し
   い姿みたいな方向性で議論がなされています。でも本当にそれが人間
   にとって幸せなんでしょうか? 社会にとって有益なんでしょうか?

   これも今から考えると無謀なんですが、失われた10年と言われるディ
   ケイドの最初の年、1990年に会社を始めました。そのきっかけになっ
   たのも、そういった基本的な疑問と、それに対する答えを探したいと
   いう気持ちがあったからです。もちろん、現実的には日々食っていく
   のに精一杯(笑)なので、すんなり理想どおりになっていかないんで
   すが。また時代的にも、私にとって90年代というのは、全然失われた
   10年ではないんです。むしろ、産業社会的労働観の行き詰まりが明確
   化し始めたという意味で、大変重要な10年だと思っています。

   その辺の話をすると長くなるので、また別の機会にしたいのですが。
   「きゃりあ・ぷれす」、その中でも特にこの「天職を探せ!」の企画
   は、分断された「仕事」と「個人」を結びつける方向性、方法論を探
   るために、私にとっては分不相応ではあるけれど、大変重要な試みな
   んです。

   なんだか、私の話が長くなってしまってすみません。脱線はこの位に
   して、松田さんにぜひうかがいたいのは、仕事と子育てについてです。
   読者の中にも、子育てをしながら自分の道を見つけたり、仕事をして
   いる人が多いと思います。松田さんが、実際に3人のお子さんを育て
   ながら仕事を続けてきたのは、一体どうしてなのでしょう。

松田 「どうして続けてこれたのか?」と今だって思っています。フシギ。
   仕事がしたいという欲求と、稼がなくちゃと思う状況が、うまくセッ
   トになっているのはいいけど、「続ける」となると一筋縄ではいきま
   せんし……。いくら、それが生活と直結していたって、「こんなにキ
   ツイのに何でやるんだろう」と、そう思うことは何十回、何百回もあ
   ったわけですから……。原稿を書くときなんか、今でも必ず一回は思
   いますよ(笑)。まぁ、私の場合、どれも“産みの苦しみ”みたいな
   ものだから、喉元過ぎれば熱さも忘れて、すぐまた前へ進みたくなる
   のかなぁ。

   女性ならではの各々の人生の選択がある中で、よりによってスキ好ん
   で「仕事も結婚も」と両手でそれぞれをつかんだままやってきちゃっ
   たわけでしょ。おまけに子育てまで。背中と前だけじゃおぶいきれな
   いから、夫の背中にも1人くっつけて。いろんな人の手を借りて助け
   られながらも、根性や我慢でなく、病気にもならず、爆発や暴走も余
   りせず、今まだここにいるのは、ささやかな充実感をそのつど味わえ
   てきたからとしか、今は言いようがない。

宮崎 すると、大学を卒業するときには、仕事はどういうものだととらえて
   いたんですか? 自分はずっと働くものだと思ったのか、結婚したら
   働かなくてもいいと思ったのか。

松田 実はその当時、今の夫との遠距離恋愛にハマってまして。「仕事もす
   る、結婚もする」と両方持つことに決めたのが、その時でした。しご
   く当然に。ちょっと“イキナリ、ヨクバリ”だった、ですネ(笑)。
   “仕事のキャリアをもっと積んでから、結婚は考えたほうが良い”と
   か、“知らない土地に行ってまで仕事なんかしないほうが良い”とか、
   いろんな意見がいっぱいあったんですが、とにかく、それに耳を貸さ
   ないほど私が若い。計算なんかしたくない。

   「自分は何者なんだろう、どこまでできるんだろう」と自分の力を試
   したい盛りでしたし。おまけに彼も東京で就職するかと思っていたら、
   頭が固くて「長男だから」と当然のごとく田舎へ帰ってた(笑)。
   彼は教員試験の勉強をしていたんですが、「試験に受かったら、早く
   こっちに来い」と急かし出して。結構、切羽詰まらされた(笑)。
   でも、そういう状況でもない限り、私は真剣に覚悟もしなかったでし
   ょうけど。映画の『スプラッシュ』のトム・ハンクスみたいに、人魚
   の彼女を追って海の中に飛び込んできてくれたら、と当時は思いまし
   たよ。でも、人に望むなら自分がやろうと。結局は、「この人が動け
   ないのなら、私が動けばいい」という判断をしました。親は泣きまし
   たね(笑)。

宮崎 そのとき“自分の仕事を決める”というのはどういう基準だったんで
   すか?

松田 ゆくゆくはそういう事情になりそうな予感もあったので、体ひとつで、
   どこででもできる。しかも自分が納得できて、やればやるほど経験が
   重なってゆく仕事。それが大前提。
   今思うと、当時からだいぶ職人志向だったんですね。

宮崎 企業に入る道を、どうして選ばなかったのでしょう。

松田 親にも相当、勧められました。「ちゃんとお給料をもらえるほうがい
   い」って。でも、私の満足と利益を追求する企業の満足が一致する、
   そういう企業があるかどうかって、まず考えました。すると、1つだ
   け思い浮かんだ。

   変な話ですけど、20年くらい前の女性の生理用品ってブヨブヨとやた
   らに厚ぼったくて、すぐ漏れちゃう。日本の紙の技術って相当なもの
   のはずなのに何とかならないのって、毎月思っていた。これを開発・
   改良する仕事ならやりがいはあるな、と思って。それとなく店先で、
   パッケージのデザインや宣伝方法を見たり、商品を試したりしていた
   ら、1社だけ先進的な感じがする会社があった。“そこならば”とも
   思いましたが、大組織に入った時、どこに配属されるかわかんないし、
   待って過ごしている間はない、と。

   それに、学生時代から、子供たちのキャンプに付き添うリーダーたち
   の仲間と自主運営の組織を作っていたので、“好きな仕事で食べてい
   く”という気概と憧れだけは、すでに経験済みだった。だから、固定
   給をもらうより、やったらやった分だけもらえる、そのほうが自分の
   性に合っている。そんな漠然とした思いがあったんだと思います。

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       ■閃きが“ピタッ”とはまる感覚を追って
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宮崎 で結局、企業の試験は受けなかったわけですか。

松田 はい。実は小学生の頃からピアノを習っていたので、ヤマハに行って
   資格を取れば、全国どこに行っても食べていけると考えて、1年間、
   こっそりと必死に練習したりしました。でも、いざ“これでグレード
   が取れる”という段階になった時に、何かピタッとこなかった。
   結婚する、すなわち愛媛に行くからというために、その仕事を選ぼう
   としているということが自分でわかっていたんでしょうね。なんか、
   自分で自分に「しょうがないじゃない」と言い聞かせている感じ。
   そこまで気付いちゃうと、ちゃんと振り出しに戻らざるをえない。

   それで、子供の頃から、私が人に言われなくても自分からやっていた
   ことって何だったんだろう。私の取りえって一体何だろうって、真剣
   に考えてみた。ちょうど21歳の時です。まぁ取りえとは、ちょっと言
   い難いけど、好奇心はある。探求心もあるだろう。もう1つは、子供
   の頃から日記だけは書いてきたから、書くことは続けられそうだ。
   それと体力。中学・高校の6年間はインターハイを狙うほど強くて辛
   いバスケット部に入っていたので、人並みに絞られても逃げ出さない
   だろうと。この3本柱に思い至ったとき、やっぱり書く仕事を狙って
   みるのが筋だと思ったわけでして。

   では、何を書くの? といっても煮詰められない。まぁ旅が好きだっ
   たから、あちこち、土地の文化を紹介できる旅もののライターになり
   たいと。四国に行っても、これなら向こうから情報も送れるだろうと
   いうヨミもあって“よし”と、まず本屋さんに行きました。
   そこで、ピーンとくる出版社や本を探していたら、「ブルーガイド情
   報版」がたまたま発刊されたばかりで、棚に平積みにされてピカッと
   光っていた。「これだ!」と思って。

宮崎 で、編集部に出かけていったわけでしょう。普通はなかなかできませ
   んよ。もしかしたら「学生はとらない」とか「あなたには力がない」
   と言われるかもしれない。

松田 それは当然でしょう。向こうには向こうの事情があるわけですし。と
   ってもラッキーだったんでしょう。その時は編集長が出てきてくれて、
   「女の子は最初はお茶くみで、編集の仕事に回りたいと言っても10年
   はかかる。実は、この本の数十ページは編集プロダクションに任せて
   あるので、出版社で編集の仕事を待つより、そっちへ行ったほうが即
   戦力がつくだろう」と、丁寧に教えてくれました。

宮崎 実際には、編集プロダクションが作っていたわけですね。

松田 ええ。ちょうど分業化がどんどん進み出す時でした。そこは、結構大
   手の編集プロダクションだったんですが。それで、そこに向かうと、
   社長がざっくばらんな人で、「ちょっとやってみたら?」とすぐに話
   が決まり、学生時代から下積みが始まったわけです。

   そこは女性週刊誌系も多く作っていたんで、旅ものはもちろん料理、
   美容、店紹介、芸能人のインタビューなど、何でもござれという感じ。
   最初は先輩の記者に連れられて要領を覚え、原稿も最終確認者に渡す。
   そのうち1人で街に出されて「今まで紹介されていない、オイシイお
   店を探してきて」とか。そうやって、だんだん鼻も利くようになって
   きた時、やっと旅ものの記事を任されました。
   時間はとてつもなく不規則でしたけど、業界の雰囲気やノリを肌で感
   じるから、いつも好奇心でいっぱいという感じでしたね。

宮崎 何をしようかなと思った時に、やっぱり動けば道は開けるんですよ。
   後悔しないためには、失敗しようがなんだろうが、自分はこうするべ
   きだと考えて行動したほうがいい。松田さんは、自分がいま何をやる
   べきかをよく考え抜いて行動を起こすことに慣れていたんでしょうか。

松田 いいえ。よくは考えないですね。ピーンと閃いた後に、ならばどうし
   ようかと。その後で思いをめぐらすほうです。
   その“ピーン”が“ピタッ”とハマるまでは、「何か違うぞ」と気に
   なり続ける。「コレダ!」と腑に落ちたときに、一気にいける。

   これは後からの体験で、だんだん分かってきたことなんですけど、与
   えられた状況をどう捉えるかは、結局はその人が選んでいるんです。
   ものごとって、いろんな受けとめ方があって、私たちは気付かないう
   ちに、自分のクセでそのものを見る角度を決めている。逆に言ってし
   まうと、どんな最悪の状況に陥ろうと、それをどう捉えるかはその人
   次第。むしろ、「どう受け入れるか」こそが、その人にできることな
   んでしょうね。観方は変えられるんです。その後に行動がついてくれ
   ば良い。

   そこに気がつくと、「あいつが悪い」とか「社会が悪い」って、あま
   り人のせいにはできなくなっちゃうんですよ。無意識にでも、要は自
   分が選んでいる。逆に自分が選べるんだということ。
   どうしようもない状況になった時には、主体性をこちらに取り戻して
   いくしかない。

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         ■挫折をどう受け入れるか
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宮崎 結婚後は、四国の松山に行かれたんですよね。やはり編集の仕事です
   か?

松田 ええ。まるっきり初めての土地で慣れていくには、まず地元のタウン
   誌に入れてもらうのが一番いいかなって。そのタウン誌では、企画は
   もとより、営業、広告制作、取材、編集、本屋への配達、売り上げ確
   認、回収まで数人で全部やっちゃう。おまけに、地方を廻る芝居や映
   画、講演会、その土地ならではの文化的内容が守備範囲に加わってく
   る。小規模だからこその面白さがありました。

   東京で育つと、つい都会イコールそれが日本と思いがちでしたが、大
   多数の地方の姿こそ実は日本なんだと思いましたね。それからだんだ
   ん人脈もできて、タウン誌だけでなく、いろんなことに挑戦させても
   らいました。ラジオドラマのシナリオを書いたり、地元の新聞に週1
   回のエッセイ欄を持たせてもらったり。

宮崎 それは、松山にいらして何年ぐらいしてからですか。

松田 2年目ぐらいからかな。保守的な風土だったので、東京から来たとい
   うだけで目立ったんでしょうね。管理教育の有名な県で、教育現場で
   の話などを聞いて「ナゼ?」と思うことも多くて、それを何回かエッ
   セイの題材にしたら、ある日突然、夫が僻地一級に飛ばされてしまっ
   た! どうも、私の存在も一因になっていたらしくて。スゴかったで
   すねぇ、四国で一番高い山の麓って。冬はビール瓶を外に出しておく
   と、凍って割れてしまうほどの寒さなんですよ。

   今月からここで暮らすという教員住宅に行ったとき、ガランとした八
   畳一間に電話線の穴だけが黒々としていて、ボットン便所には大きな
   ゴキブリの卵がツヤツヤと転がってました。思わず、畳にヘタッと座
   ってネ。「悔しい」というより「ヤラレタ!」という感じでしたね。
   どうしようかなと茫然としつつ、一方では「ヘェー、書きたいことを
   書くと、こういうことになるんだ。よく映画にあるジャーナリストみ
   たいじゃないか」なんて思ったりして。夫は夫で、「俺は団体活動を
   していないのにナンデ僻地なんだ?」と考えていたみたいですけど。

   後で新聞記者の友人に調べてもらったら、書類上はキレイに処理され
   ている。見事にハメられちゃったけど、「そのうち、バチでも当たる
   よ」と思うことにして、さぁて……どうするか。そのままここで暮ら
   す前に、おそらく一生この県で僻地回りという、この土地ならではの
   事情に従うかどうかをまず今、考えたい。ここで2人で移動すると土
   地の風土に、きっとのまれるな……という直観がして、「好きにして
   いいよ」という夫の言葉に甘え、私は1人、街に残ることにしました。
   残って、1人に戻って模索しようと。

   ところが模索どころか、次から次へと友人たちが仕事の話を持ってき
   てくれて、あげくの果てには「素人で松山初のミュージカル劇団を作
   ろうよ」という話になって、自宅のマンションがまるで事務所。
   800人の会場を満員にするほどの公演を立ち上げました。それが、今
   では県お墨付きの劇団になっている。時代も変わるもんです。

   まぁ仲間が集まって何かを創り出す活動というのは、このあと東京へ
   戻ってもずいぶんやりました。私の場合、ライター、イコール火付け
   役という役割だったのかもしれません。1人になって書くということ
   と、みんなで何かを創りあげていくという共同作業の循環が円になっ
   ていて、知らずに前へ進む原動力になってきたんですね。

   結局、夫は1年後、埼玉県に「自由と自立をめざす」という私立の学
   校が新しくできる情報を得て、試験を受けました。旅立ちが決まった
   時、地方新聞に「地元の子供を捨てていく教師がいる」と匿名の投書
   が載りました。善意に取れば、きっとその人も、この土地の変わらな
   い状況にいらだっていたんでしょう。でも私は、松山を出る前にエッ
   セイ欄に最後に書かせてもらいました。「自分の青い鳥は、自分で見
   つけるしかないと思っている」って。「だから自分の生きる場は、自
   分で創るしかないんだ」って。植物の芽だって、出るときには出せる
   ところを自分で選んでいるんですから。
                           (後編に続く)

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テーマ: 医療・身体の使い方